資産家宅でのサロン

 

Part 2 「おもてなし教育」の重要性

 

 

メアリーの「おもてなし教育」

 もちろん、メアリーのこの分け隔てない態度は、単に彼女が外国人女性であったことによるものではない。彼女の手紙を読めば、鹿鳴館に出入りしていた各国の外交官夫人が日本の上流階級について陰口を言うことの非礼を嘆く文章に出会う。当時欧米列強の上流層の多くは、日本の上流階級でさえ見下していたということだろう。にもかかわらずメアリーがこのような態度をとらなかったのは、イギリス人でありながらイタリア生まれというコスモポリタンな生い立ち、そして教育に負うところが大きいと思われる。

 伝記によれば、1862年、当時11歳のメアリーは姉とともに初めて母国イギリスに渡り、上流子女の寄宿学校に滞在する。その教育内容は今日のいわゆるフィニッシング・スクールにも通じるものだが、単なる礼儀作法にとどまるものではなかった。

彼女はこう回想している、「なにごとにも思慮がめぐらされました。混みあった部屋に穏やかな落ち着きをたたえて入るにはどうするか、といったことも習得しなくてはなりませんでした」。しかし何よりも重要であったのは、そこでは学校があたかも一つの家庭となっており、寄宿生の少女たちが「伯母様」と呼ばれる教師たちによって真に心のこもった暖かな「おもてなし」を受けたことだろう。

 

 「そしてアフタヌーン・ティーとあと二時間の勉強。それから夕方のていねいな身づくろい。そして極め付きのハイ・ティー。このときは、誰もが休みなくおしゃべりし、少女たちは大きなケーキを好きなだけ切っていただきます。それから、その日のすてきなお楽しみのひと時である夕べの集まり。ひろく美しい客間は、きらびやかに灯がともされ、伯母様のひとりの朗読に耳をかたむけながら、せっせと指を動かしてかわいい手芸作品を作るのでした。就寝は九時半でした。」(『英国公使夫人の見た明治日本』)

 

 ここにあるのは、大人たちに対するような饗応としての「おもてなし」ではない。しかしながら、客人(この場合は寄宿生)が心豊かに過ごせるようにとの周到な配慮は、まさに「おもてなしの心」ではないだろうか。

 

英国公使夫人の「おもてなしの心」

メアリー・フレイザーの回想を読むと、少女時代に受けたこの「おもてなし教育」の体験が、後に彼女がみせる日本人に対する優しさにも反映していると思われてならない。クリスマスには日本人の使用人の子供たち(何と200人もいたという)のために自らツリーを飾り付け、異文化の子供たちをどう喜ばせたらいいのか戸惑いながらも、一人一人のために懸命に贈り物の準備をした。おそらく、これは日本の庶民の子供たちが経験した最初のクリスマス・イベントの一つとして歴史に残るものだろう。一方で上流階級の子女を招いたパーティーも催しており、日本では使用人の子供たちも上流階級の貴公子たちも行儀作法の素晴らしさは甲乙付け難いと評する彼女は公平そのものである。

こうして身分の貴賤、地位の上下にかかわりなく、等しく「おもてなしの心」で接する英国公使夫人メアリーの姿は感動的ですらある。

 このような態度は、メアリーの「おもてなし」が単にフィニッシング・スクールの教科書を覚えただけの礼儀作法より一歩も二歩も先んじたものであることを示している。少女時代に「おもてなしを受けること」から学んだメアリーの「おもてなし」は何よりも心であって、その作法に対する見方も形式より心を重んじるものだった。

子供たちの立居振舞いの中に形式よりも心を見ていたからこそ、身分や境遇にかかわらない純粋さを素直に感じ取ることができたのであろう。

 

軽井沢に伝わる心

 当時、外国公館に勤める外交官の別荘の多くは日光の中禅寺湖畔にあったという。そんな中でメアリー・フレイザーと夫ヒューの別荘が軽井沢であったのは何か象徴的なものを感じる。鹿鳴館時代として記憶されるこの時代にあっても、「心」を伝える場としては鹿鳴館という外交舞台よりも軽井沢別荘地の方がより相応しかったと思われるからだ。

中禅寺湖畔の外交官別荘地も、どことなく政治の匂いを引きずっている。だが、宣教師と学者によって発見された避暑地・軽井沢はそうではない(軽井沢に最初の別荘を建てたのは、慶應義塾でも教えたというカナダ出身の宣教師ショーと夏目漱石の恩師であった帝大教授ディクソンだったとされる)。鹿鳴館の夜会も日光の外国人別荘地もやがてその歴史的使命を終えるが、軽井沢はその後大正、昭和と時代が変わっても長く国際的な社交の場であり続けた。

その心は、別荘地に集う古い家柄の人々の間で、今もなお生きているのである。

 

 

「古い家柄の社交」を体験する

 ところで、このような伝統ある古い家柄の人々の社交を、外部の人間が、まさにその軽井沢という地で実際に体験できる機会がある、と言えば信じられるだろうか。

 レストランやクラブに行く、という話ではない。この地に古くから所有されている別荘に、友人あるいは仲間と同等の客人として招待を受ける機会のことである。招待客はガーデン・ランチやガーデン・ディナーのもてなしを受けるが、レストランなどと異なり食事が目的では必ずしもない。

 主宰者は別荘の所有主で、やはり国際的な経験の豊富なご婦人である。東京にあるご自宅で社交やおもてなしをテーマにしたサロンを開いておられ、サロンの参加者をご自身の別荘にご招待したいとの趣旨である。一般に、「軽井沢の別荘での社交は、国際的と言ってもごくごく内輪のもの。もちろん饗応の場所ではありません」ということだが、一方「家族や親しい友人と心豊かに過ごすには最上の環境」であるという。

この方も「おもてなしや礼儀作法に教科書はない」と言っておられる。ご自身に自然な形でおもてなしの心や作法が身に付いたのも、「教科書で学んだというよりは、若い頃から国の内外でいろいろな方々から心のこもったおもてなしを受けてきた経験があるからです」。

 東京のサロンについては、「主なテーマは社交ですが、それに限ったものではありません。私の国際的な人脈のネットワークから様々なビジネス上の便宜もご提供できると存じます。もちろん、外国から来られるご友人や取引先をおもてなししたいが、どうしたら良いだろうといった社交上のご相談も喜んでお受けいたします」。

そして、「おもてなしの心を学ぶには、実際におもてなしを受けてみるのが一番」とも言われる。

 

人格を認め合う関係が幸福をもたらす

 このような意見を聞くにつけ、別荘地軽井沢を愛した英国公使夫人メアリー・フレイザーの心に通じる何かが今日も別荘所有者の間に流れていると感じるのは筆者だけではないだろう。メアリーの伝記や回想を読んで思うのは、幼い頃から心のこもった「おもてなし」を受けたことが、彼女のその後の人生にもたらした計り知れない豊かさである。大英帝国公使夫人として、作家として、そして心優しい女性として、彼女の人生は幸福だった。

言うまでもないことだが、レストランやお店で受けられるサービスと異なり、「おもてなし」は、金銭の代償として受けるものではない。尊敬するべき人から客人として遇されるということである。それは、互いの人格を認め合うことだ。だからこそ、その豊かさには限りがないのだろう。

とりわけ人生の初期において人々から尊重されたという経験は、自信と思いやり、そして人への敬意へとつながる。そうして培われた態度こそが、その後の人生に幸福をもたらすと言えないだろうか。

 日本、そして軽井沢を愛し、明治の子供たち200人をクリスマスに招いたメアリー・フレイザーの生涯は、あたかもその豊かさを象徴しているかのようだ。

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