資産家宅でのサロン

 

軽井沢

別荘地での国際的社交の世界へ

 

 

 

Part 1  英国公使夫人の国際的社交

 

 「・・・やがて緑の峠に立つことになります。魔法の新世界――隠れ家や城砦、櫓や支壁、そびえる聖堂や深く掘られた濠――が驚くあなたの眼下にひろがるのです。あの灰色の吊り下げ門から、アーサー王の騎乗の廷臣たちが金色の列をなして出て来そうです。アーサー王のお妃があの高い欄干に身をもたせ、彼女の恋人、反逆の騎士が上の方を一瞥するのを待っていそうです。何か厭わしい蛇が竜鱗のとぐろを巻いていそうなあの谷はなんと深いのでしょう! 遍歴の王が不可思議な妹モーゲイン・ル・フェイと夢見て時を過ごしそうな、黄金のもやに溶け込んでいるあの遠くの尖塔は、なんと高いのでしょう!(横山俊夫訳『英国公使夫人の見た明治日本』)

 

 おそらく読者には、これが現実の紀行文の一節であって、実際の、しかも日本の景観に基づいて書かれたものとは俄かに信じ難いのではないだろうか。

しかし確かに作者は、「緑の峠」に立ち、そこで目の当たりにした光景の印象を、おそらくこの最果ての地を訪ねることは生涯ないであろう故国の人々に的確に伝えようと慎重に言葉を選んだのである。

それは1891年、当時の大英帝国公使の夫人として日本に滞在していた作者メアリー・フレイザー(Mary Fraser)が別荘地軽井沢を訪れたときのことであった。

 

遍歴の貴婦人

 明らかに彼女は、軽井沢の景観の中に伝説的なヨーロッパ中世を見ていた。すでに現実のヨーロッパにも存在しない情景だ。

 だが、その「あり得なさ」こそが別荘地軽井沢には相応しい。軽井沢とは単なる避暑地、別荘地ではない。異次元世界へと開いた小さな窓である。そして、その異次元世界の案内人としていかにも適役なのが、遍歴の貴婦人メアリー・フレイザーなのだ。

 ちょうど40歳になるかならぬかというこの魅力的な女性は、アメリカの富裕な上流階級出身の母と彫刻家であったイギリス人の父がイタリアで出逢い、恋に落ちたことから生を享けた。幼時は古代ローマの面影の残る広大なヴィラで過ごした。その娘時代は絵画史で言えば印象派の形成時期とぴたりと重なるが、イタリア、イギリス、合衆国へと往還する生活であった。そして英国の外交官である夫ヒューと結婚してからは、そこに南米、中国、日本などが加わる。いまだ飛行機のないこの時代、人生の何分の一かを船の上で暮らしたとも言えるかも知れない。

その生涯は、多くの著名人との交流に彩られている。幼時には童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン、晩年には20世紀文学の先駆者とされる小説家ヘンリー・ジェイムズと出会った。日本滞在時には維新の功労者、明治の元勲との交流があったのは言うまでもない。

 

 

鹿鳴館の華が愛した別荘

このように当時の婦人として類まれな国際的経験の持ち主であった彼女が真に心の故郷としたのは、祖国イギリスでもなければ母の故郷アメリカでもなく、イタリアと日本であったということである。

 日本外交史で言う「鹿鳴館時代」にあたるこの頃、英国公使の妻であったメアリーも当然ながら夜会服に身を包み鹿鳴館の華となった。かと思えば東京の夜店で売っていた無数の蛍をまるごと買い取り、公使館の庭に解き放ったこともあった。そのとき、「私は自分が、ともにたわむれるために星ぼしを地上に呼びおろした白い魔女のように感じました」(前掲書)

そんな彼女が、まさに印象派絵画から抜け出したかのような夏服にパラソルという出で立ちで、片言の日本語を用いながら貧しい人々との交歓を楽しんだのが、避暑地・軽井沢の別荘であったのである。

 

国際的社交の始まり

 英国公使夫人だけではない。そもそも東京の蒸し暑い夏に悩まされていた外国人たちによって避暑地として「発見」された軽井沢であっただけに、明治から昭和初期までの軽井沢別荘地は、さながら日本のなかの小さな外国の観があった。しかも東京の鹿鳴館に象徴されるがごとき、きらびやかだが近寄り難い異国ではない。上品で慎ましやかな風情を保ちながらも、どこか気楽で打ち解けているのが軽井沢なのだった。

 

 「軽井沢は、日本の中の西洋だったのだ。和風の家は少なく塀のない開放的な洋風別荘と、そこに過ごす西洋人の生活が外から伺える。別荘の主は道を行く日本人に手をふり、通りがかりの子供に手作りのクッキーを振る舞ってくれる。夜になると、オーディトリアム(ユニオン・チャーチ)での音楽会、集会堂での映画会等を楽しむ。オーディトリアムの階上席では西洋人の子供たちがはしゃぎ、会衆席の大人たちは取りとめのない話に間をもたせる。」(宍戸 實『軽井沢別荘史』)

 

 この雰囲気に惹かれてか、大正時代に入る頃から華族、皇族をはじめとする日本の上流階級も軽井沢に別荘を求めるようになった。純西洋風のホテルでは舞踏会が開かれた。東京では政治的で堅苦しいものだった外国人との付き合いが、軽井沢では本音で語り合える、リラックスしたものとなっていた。

 だとすれば、日本における真に国際的な社交が、東京の鹿鳴館などではなく軽井沢の別荘地で始まったと考えても、あながち間違いではあるまい。外国人宣教師が多く滞在していたことも手伝ってか、別荘を構える富裕な日本人たちも華美な生活は慎み、「自然のままの庭で楽しみ、虚飾のない人との交わりを尊ぶ」(『軽井沢別荘史』)ようになったという。教科書的な礼儀作法を覚え込むのではなく、自然に相手を思いやることで異文化の人々とも分け隔てなく付き合うという国際的な社交のスタイルがそこから形成されていく。それは、言うまでもなく鹿鳴館で行われていたような、社交の衣をまとった政治・外交とは本質的に異なるものである。

その精神は、現在の軽井沢で別荘生活を楽しむ人々にも受け継がれているが、その淵源を辿れば英国公使夫人メアリー・フレイザーのような、国際経験の豊富な上流階級の外国人女性がもたらしたものであるかも知れない。武士の世の中が終わってまだ30年も経っていないこのころ、四民平等とは言いながら上流と下層の違いは天と地ほどもあると思われたであろうに、超大国イギリスの代表として赴任した公使の夫人が、この地の果ての島国の、それも片田舎に住む名もなき人々に示した優しく親しげな態度に、当時の日本人の驚きはいかばかりであっただろうか。

Part 2  おもてなし教育の重要性

 

 

お金の歴史、文化と哲学

軽井沢: 社交への招待

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外貨預金の呆れた実態

 

 

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