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Part 2 寄付のパラドックス
どうやら、そうだとも言い切れないのである。そこで、この文章では、「寄付」というものが成功哲学において何故これほどまでに重視されるのか、宗教色を一切排した形で考察してみたいと思う。
あまり関係ないようだが、植物に「ありがとう」と言うとよく育つとか花がきれいに咲くという話がある。これを表面的に解釈して、そんな非科学的なことを子どもに教えるべきではないと論じる人がいるがナンセンスである。これは植物の生態の話ではなくて、人の態度のことを言っているからだ。相手が植物であっても「ありがとう」と言いながら接していれば、水遣りを忘れなくなるなど、自然にていねいに扱うようになる。従って、結果的によく育ち、きれいな花も咲くのだということだろう。
「寄付」についても同じように解釈してはどうだろうか。いつ寄付したか、いくら寄付したかというような問題ではなく、収入の十分の一ものお金を、惜しげもなく寄付してしまうような人たちが、どのような態度でふだん人に接しているのかを、想像してみるべきなのである。チップ・コリンズのエピソードで言えば、全財産がわずか35セントになったときにこれを教会に寄付してしまうような人が、どんなふうに仕事をし、家族や友達を扱っているかを考えてみることだ。そこに浮かび上がるのは、強烈なまでの無私と、捨て身とも言える信念の人の姿ではないだろうか。
つまり本当の主題は「寄付」そのものではなくて、人の生きざまなのであって、ただそれが「寄付」という行為にあらわれているにすぎないのだ。
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だが、「ありがとう」と言えば人の態度が変わるように、「寄付」という行為がきっかけになって、人の生きざまが変わることもありえないわけではない。成功哲学において、あれほどまでに寄付が強調されるのは、それが人を変える力をもっているからだろう。
では、「寄付」をすることによって、人はどのように変わるのか。あるいは、変われるのだろうか。
まず考えられることは、ポジティブになれるということ。そして、「感謝の心」が持てるということだ。
「寄付をすれば、感謝の心が持てる」。これについては、やや込み入った説明が必要だろう。
なぜかと言えば、一見するとこれは逆転した議論のようにも思えるからだ。ありていに言えば「感謝」するべきなのは寄付を受ける側であり、寄付をすれば「感謝される側」になるわけである。ところが、深層心理学的に言えば、必ずしもそうではない。
深層心理学では、人間の心には「合理化」のメカニズムが備わっているという。簡単に言うと、ありのままでは受け入れ難い現実を、解釈を変えることで受け容れやすくし、心の平静を保とうとする働きのことである。典型的には、入学試験に失敗したときに、学力不足という現実に向き合うよりは、「運が悪かっただけだ」とか「もともと行きたい学校ではなかった」と考えるような心理的傾向を指す。というと、単なる現実逃避のように聞こえるかも知れないが、いつまでもくよくよ悩まずに、心機一転、再出発を遂げるためには必要な心理的メカニズムだと言えるだろう。
チップ・コリンズでなくとも、なけなしの財産を寄付するなどということは、相当の覚悟がなくてはできるものではない。たとえ腹を括っているように見えても、心理的な負担はかなりのものだろう。この負担を軽くするために、合理化のメカニズムが働く。その際に用いられる論理こそ、まさにマーク・ビクター・ハンセンの説く「神からいただいたものの一部を神に返す」ということである。日本人であれば、「神」を「世の中」と言い換えてもよい。自分がこれだけの収入を得ているのは「世の中のおかげ」なのだから、その一部を「世の中に返す」のは当然だということにして、自分を納得させようとするわけだ。
これに対して、寄付を受ける側では、「寄付を受けたこと」に対する心理的負担を減らそうとするメカニズムが働くので、逆に「有意義な活動をしているのだから寄付はもらって当然」という思考に陥りがちになる。かくして、寄付というものは、ややもすると、寄付する側が「感謝の念」を強く感じる一方で、受ける側はそれほどでもないというパラドックスを生じる可能性をはらむものなのである。
2. 寄付のパラドックス
3. 感謝に思考の軸を移す
4. 投資と寄付の類縁性
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